2016年7月13日水曜日

東京ヤドカリ日記 --ヤドカリ前夜--

[ヤドカリ前夜]

23年の西荻生活(自宅や事務所)に別れを告げるときが来た。

 
たいした荷物はないと思っていたのに、本や雑誌が出てくる出てくる。
間借りする事務所のマイスペース。寝泊まり禁止だ。 
西荻で寝袋寝の練習を。
 
ガレージセールで荷物を減らす。


新事務所は最小限の荷物でスタート


ヤドカリ生活を始めたそもそもの動機は経費の節約だった。
月に半分しかいない事務所にしちゃ家賃その他で金をかけ過ぎていると気がついたのだ。
光熱費など込みで13万円+松本との交通費はぼくの仕事量からすると多すぎると考えたのが2016年2月末くらいだったか。といって、家賃の安い事務所に住み替えるのでは規模が縮小するだけの話で、いやそれでもいいのだろうけど、構造が一緒なのでおもしろくない。
 ならばシェアオフィスはどうだろうかと調べ始めたときに友人のオフィスが引っ越すにあたり、
こないかと誘ってもらった。条件は光熱費込みで4万円だ。
その話に乗り、間借りを決めたところで、そこが純然たる事務所で寝泊りできないことがわかったのである。
 13万円ー4万円で9万円が浮くならば、その範囲で神楽坂にワンルームでも借りる方法もあったのだが、
たいした節約にはならない上に煩雑さが増すばかりだ。
また、その頃には荷物を大幅に減らして身軽になることがうれしくなってしまい、
わざわざ部屋を借りる選択肢は消してしまった。
 そうなると寝る場所がないが、それはなんとかすればいいと顧みず、引っ越しへと突っ走ったわけである。
 対応策はエアビーやゲストハウスの活用、いざとなればマンガ喫茶で乗り切ろうと思った。
フーテンのトロさんだ、なんてな。

 が、思い返せばですよ、西荻に別れを告げてまで身軽になったのは節約のためである。
月に半分として15日間、金を払って泊まっていたら意味がないことになる。
友人たちからもその矛盾を指摘され、かえって高くつくと言われたりした。

 ならばヤドカリはどうかと、無い知恵を絞ってみた。
 そのときに、面倒さや肉体的しんどさを予測して悩むのではなく、
自分はそういうのやってみたかったんだと思ったのだ。
前々から、どうして人は社会人になると、学生時代のように気軽に友達のところに泊まったり
しなくなるのだろうと思っていたからだ。
親しい友人でも徐々にそうなるものだし、まして結婚して家庭を持つ相手のところには押しかけにくい。
我が家にはときどき友人などがくるけれど、ときどきだからいいので、
いつでもウェルカムかというとそうでもない。
自分がそうなのだから、人が同じなのもわかる。
けれども、それは寂しいことだなと、そんな気持ちを持っていた。

 そのぼくが東京滞在時、宿無しになる。だったらヤドカリになるのはどうか。
もちろん、そればかりでは疲れるのでエアビーなども利用しつつの話である。
まぁ月に5日間くらい、友人や親せきのところを転々とする程度ならなんとかなるのではないかと思った。
 ところが、ぼくは甘く考えていたのだ、東京の宿泊事情を。
エアビーやゲストハウス、そうとう前に予約しないと取れません。
しかもエアビーは1泊で予約できるところは少なく、1週間以上が多い。

 つまりこういうことである。
安定して宿泊先を確保するには、1カ月以上前にスケジュールを決めて動かないと間に合わない。
一方、ぼくの仕事ときたらきわめて予定を立てにくい。
月の前半は取材が多く東京滞在の必要性が高い、くらいのざっくりしたものである。
それにしても連載企画に関しての話で、単発の仕事は時期など関係がない。意外にエアビーは利用しづらいのだ。

 有料宿泊施設を前もって押さえておき、それに合わせて上京、
取材や打ち合わせをこなす方法は応用が効きにくい。
フリーランスの都合に合わせてスケジュールを組んでくれる仕事先は、長年のつきあいがあったり、
奇特な担当者がいるところにかぎられるだろう。
その日は宿が取れてないんで別の日にしてくれないか、なんてのは通用しないし、
そんなことしたらたちまち仕事を失うに違いない。
 であれば、やはりヤドカリ生活を取り入れていくのが最善かつ自分にとっても楽しみな方法ということになる。
問題はヤドカリさせてくれるところがあるかということだが、そこは深く考えないことにした。
深く考えるれば考えるほど常識的な判断に陥りやすくなり、何もできなくなる。

 神楽坂の新事務所への引っ越しが4月26日に決まり、準備が慌ただしくなった。
目指すは身軽な仕事場だから旧事務所の荷物はできるだけ持っていきたくない。
といって松本の自宅にもスペース的なゆとりはない。
 事務所の荷物を大別すると本棚などの家具、書籍や雑誌、プリンターやPC、文具といった仕事道具になる。
最初に決めたのは神楽坂に持っていくものだった。机と椅子、プリンター、読書椅子、本棚1本、最小限の書類と文具、本。それ以外は持ち込まないと決めた。
一方、自宅に持ち帰るのはソファセット、カラーボックス数本、最小限の本や雑誌、衣類。
 残るのは何か。ベッド、布団、食器、レンジ、打ち合わせ用のテーブル、椅子、敷物、本や雑誌、雑貨などなど大量だ。処分を考ええなければならない。十分に使えるものが多く、捨ててしまうのは罪の意識を伴いそうだ。
もっとも大量にあるのは本だから、まずそこをどうするか。
ざっと勘定して書籍が二千冊、雑誌が千冊、自分でつくった「レポ」が三千冊。
これらを思い切りよく処分しなければどうしようもない。
 本と雑誌は簡単だ。つきあいのある古書店にきてもらえばいい。
以前、高遠の「本の家」を閉じる際に5千冊くらい処分したため、古書的価値のある本は少ないが、
頼めばまとめて持って行ってくれるはずである。大事にしてきた「写真時代」その他の雑誌は松本にでも運ぼう。写真集もそうしよう。いずれ何かで使うかもしれないから。
 それが変わったのはFBに「本をたくさん処分しなくちゃ」と何の気なしに書いたことによる。
すぐに予想外の反応があった。金沢と水戸の古書店が「買いますよ」「売ってください」とコメントやメールで連絡してきたのだ。
いや、そんなつもりではないのだよと思ったけれど、そのコンタクトの仕方に迫力がある。
西荻なら何もしなくていいが、地方に送るには選別や段ボール詰めをしなくちゃならない。
面倒だけど、彼らのほうが普段から仕入れで苦労していて、同じ本を喜んでくれるのではないだろうか。
そんなふうに思い、OKの返事を出した。
その後、松本でこれから古書店を開業しようとしてる知り合いからも連絡が入り、計3カ所で処分することになる。

荷物の中で早々に貰い手が現れたのはレンジとコーヒーメーカー。テーブルと折り畳み椅子5脚も引き取り先が決まった。うれしかったのは鹿の角。これは困ったなと思っていたんだけど、松本の知人が欲しいと言ってくれた。また、ベッドなどは義母の家で一時預かりしてもらうことになり、捨てるものが減ってきた。
役所に問合せ、粗大ごみシールを貼ったのは本棚1本、カラボなど。たいした量でもないのに4千円ほどかかってしまい、まだまだあるので義母宅に運んで、ごみ処理場に持ち込むことにした。
ツイッターで「ガレージセールをしてほしい」と呟いた人がいて、それも楽しいかなと開催してみた。
きてくれたのは20人くらい。宮城県かあやってきた人もいて驚いた。
値段をつけるのは単行本のみ、文庫や雑貨はすべて差し上げることにし、いくぶん減った。売り上げは4万5千円くらい。
もっとも困ったのは「レポ」である。当然捨てたくはないが持っていてもどうしようもないのだ。
表紙をはがして束ねたときは涙が出た。
でも、そんなことにも慣れてしまう。2日目からは何も考えず縛っていく。
「レポ」の処分だけは自分でやったが、他は申し出があるとありがたく手伝っていただいた。
岩橋真実、宮坂琢磨、西谷格、松本から来たHさん。4月26日の引っ越し当日は友人たちが力を貸してくれた。
もっとも、最後は結構ドタバタで、松本からクルマで来て義母宅に不用品を運び、
松本にも荷物を持ち帰り、どうにか部屋を空にした感じ。

とまあ、ヤドカリ前夜の引っ越しについて長々と書いてきたのは、
こういう細かいことはすぐ忘れてしまうことと、引っ越しをしながら徐々に、
東京で寝泊まりする場所がなくなることを実感したからだ。
早めに義母宅へ寝具を運んだのは、引っ越し前の数日間、
寝袋で床に寝る実験をしようと思ったからだが、5連泊はそれなりにきつかった。
寝返りが打てないせいか数時間寝ると目が覚めてしまうのだ。
でも逆に、一晩や二晩なら寝袋でも平気だとわかったのは収穫だった。
寝袋はシーツがいらない。誰かのところに泊まったとしても、あとでシーツを洗うなどの負担をかけなくて済む。

4月29日、不動産屋立ち合い。
鍵を返し、6年半ほど過ごした事務所から撤退。同時に、住んだり仕事場を持ったりして23年もいた西荻を離れることになった。
ぼくにとってこんなに大きな環境の変化は久しぶりのことだ。
連休は義母の家と松本、母のいる九州で過ごし、神楽坂に行ったのは5月10日。
最初のヤドカリ場所は義母の家である。