2019年6月17日月曜日

北尾トロ仕事帖2019.5月 ヨシオカがいなくなった

「夕陽に赤い町中華」(集英社インターナショナル)

[北尾トロ仕事帖2019.5月]

僕の個人事務所は4月決算なので、5月は年度初めの月である。
なぜかわからないが、例年、のんびりスタートするパターンで、おかげで畑仕事にも時間が割けるというわけだ。まあヒマってことですね。遊んでいる余裕はどこにもないんだけど、こういうものだとあきらめると気が楽だ。フリーランスは山あり谷ありが普通。ヒマだ~忙しくて大変だ~と騒いでもなんにもなんない。出版業界の先行きなんて不透明もいいところだから、ライターは、書くのが好きとかいう以前に、安定志向の人には向かない職業だ。

そんな具合にのほほんと暮らしている僕に、友人のえのきどいちろうからのLINEが入ったのは5月21日(火)の夜だった。ヨシオカと連絡が取れないが何か知らないかという (下へ)




ヨシオカはマメな男だから、LINEメッセージを送ったのに既読にならないのは妙である。僕も電話してみたが、留守電になっていた。心配だ。ツイッター、FBもここ数日投稿が途絶えている。そして翌23日、ヨシオカの友人が自宅へ赴いたところ、部屋の中で永遠の眠りについていたことがわかった。解剖の結果、死因は心不全とされたが、一体何が起きたのか真相はわからないままだ。

ヨシオカこと吉岡信洋との出会いは2011年のことになる。当時僕はノンフィクション雑誌『季刊レポ』を編集発行しはじめたところだった。事務所が西荻にあり、雑誌ができると執筆者などが集まって発送作業をするようなインディーズ雑誌だったが、2010年の創刊以降、日々目まぐるしい展開の中で右往左往しながら過ごしていた。雑誌の存在をアピールしたいのと、新しいメディアとしての動画配信に興味があって、ユーストリーム番組で『レポTV』というのを友人で執筆者のひとりでもある、えのきどいちろうと始めることに。どうせやるならというので、毎週放送しようと決めた。
ヨドバシへ行って安物のウェブカメラとマイクを買い、最初の放送をしたときだったか、ヨシオカが連絡してきたのだ。画像も音も不安定であると書かれ、電話番号が添えられていた。それで確か番組中に電話をし、手伝いに来てほしいと頼んだら、翌週やってきた。それが最初だった。えのきどさんとは過去にやり取りをしたことがあるらしかったが、会うのは初めてだという。僕はこの流れは面白いと思い、フリーのラジオマンであるヨシオカに協力を仰ぐことにした。こうして吉岡信洋は、"技術のヨシオカ"という名称でレギュラースタッフになったのだ。

ヨシオカはマニアックなラジオファンであり、熱心なえのきどいちろうファンでもあった。えのきどさんの前では少し緊張気味で、そのことをからかうと「あたりまえじゃないすか。えのきどいちろうですよ」と少し怒ったりした。じゃあ僕はどうなんだと詰め寄ると「トロさんはまあ、その調子でいいです」と口を濁すのだった。番組トークに関し、ヨシオカからほめられたことは一度もなかった気がする。
『レポTV』に報酬はない。それどころか交通費も自腹である。えのきどさんも僕もそうだったので、助っ人のヨシオカだけ特別扱いするのはなしだろ、と僕は勝手に決めてしまった。『レポTV』は雑誌がなくなっても月イチの放送とかで続いた。200回は軽く超えただろう。少なくとも、2011年から16年にかけて、家族以外でもっともひんぱんに会っていたのは、えのきどいちろうであり、ヨシオカだった。
最後は2018年初頭だったか、小岩の「クラフト酒店」2階で収録したのだと思う。東日本大震災直後もやったし、被災地の仙台「火星の庭」からも放送した。ヨシオカの尽力でラジオ福島に出演したこともあった。雑誌が終りを迎えるとき、終えることも当然考えたけれど、ヨシオカに却下された。

気がつくとヨシオカはレポ関連のイベントを放送するしないに関わらず収録するようになり、宴会部長として底なしの飲みっぷりを発揮し、僕と下関マグロが町中華探検隊の活動を始めてからは広報を担当。えのきどさんのツイッター中の人も買って出るなど、プロ裏方というか(無報酬だけど)、独自の動きを見せるようになっていた。そういうのが好きな男だったのだ。いつもそば(背後)にいて、あれこれ世話を焼いてくれる。僕だけではなく、いろんなところで親切に、自分の技術と経験を提供していた。

そのヨシオカが急に視界から消えてしまった。
亡くなって数日間、予約配信された情報がツイッターにアップされるたび、僕は「ヨシオカいるじゃん」と叫びそうになった。でも、もういないのだ。天に還ったのだ。僕はとうとう最後までヨシオカの好意に甘えっぱなしのまま、唐突に別れの日を迎えてしまったのだ。
あのなぁヨシオカ、こっちは気持ちの持っていきようがないんだよ。挨拶くらいしてからいなくなれよ。(下へ)
ラジオマン吉岡信洋(享年46)
撮影/濱津和貴
30日、川崎市の火葬場にはレポの関係者もたくさん集まった。みんな口々に信じられないと言い、でも事実なんだと肩を落としていた。
人は簡単に死んでしまう。19歳のとき、夕方には元気だった父がその夜亡くなる経験をしてから、そういうものだということはわかっているつもりだ。だけど、いつまでたっても慣れることはできない。慣れたくもない。

いなくなったヨシオカが僕になにかいうとしたらなんだろな。
「オレ、もう無理っすから、そろそろ自分のことは自分でやってくださいよ」とかかな。
「わははは、ったくもう、しっかりしてくださいよ~」
あの豪快な笑い声が耳にこびりついて離れない。

[今月の仕事]
                 <原稿>
そして人生は続く 第4回
(法学セミナー7月号 日本評論社)
ヘンケン発掘ラボ 第7回
雷光に魅せられてテスラコイルへ
つくば科学株式会社代表 菊地秀人氏
(ラジオライフ 三才ブックス)
裁判員裁判は定着したのか?
(ビッグコミック 小学館)
トロイカ学習帳 第135回
長尺、難解、マニアック…
手強い本は"分担読書"で突破する!
(ダ・ヴィンチ7月号 KADOKAWA)
町中華探検隊がゆく!第45回 
(散歩の達人7月号 交通新聞社)
北尾トロのビジネスマン裁判傍聴記 第37回
(プレジデントオンライン)

<受取材>
・町中華インタビュー(メシ通)

<ラジオ>
・「北尾トロのヨムラジ」(FMまつもと)